Masuk今からでも逃げるか……いや、無理だ。
少なくともローブの男と大柄なノエルと呼ばれていた男は間違いなくαだろう。
ミレーと呼ばれていたもう一人は女性だったが、纏う雰囲気がもう凡人のそれではない。
間違いない、全員αだ。
詰んだ。
でも、どこかで逃げなければ、このまま監獄にでも入れられたら、本当に人生が詰む。
ドーン王国では魔女狩りと称して薬師が大量に殺された時代があった。
当時の王が薬師に王妃を殺されたとして、国中の薬師を虐殺したのがキッカケだったとか。
そのせいでドーン王国は他国に比べ薬学が廃れて久しい。
現王レイモンドは積極的に他国からの薬も輸入し、自国の薬師を増やす政策を謳っている。
だが、現状高価な薬を買えるのは貴族くらいで、平民には過ぎた代物でしかない。
そんな平民が頼れるのは民間療法程度の気休めで、祖母は持てる知識を生かして、薬効成分を混ぜた特別な香辛料を作っては売っていた。
何故祖母にそんな知識があったのかは分からない。
だが、その分からない事が、モリガン伯の疑念を晴らす事が出来ない理由の一つでもある。
祖母がモリガン伯に捕らえられてからは、オルタナがその店を継いだ。
幼い頃から何でも口にし、匂いを覚え、見分けて、レシピがなくても出来る様に教えられて来た。
ドーン王国では国が認めた薬を、国が認めた医師が処方する。
それには国の許可が必要で、個人での薬の販売は禁じられている。
だから、スパイスやシロップ、調味料や果実酒として売るのだ。
薬ではないけれど、薬効のある物ではある。
グレーな物を扱っている認識はあるので、憲兵や軍幹部には気を付ける様にしていたのに――――。
「おい、待て! オルタナをどうするつもりだっ!」
馬車の外で騒いでいるのは、隣の肉屋の幼馴染スーランだった。
「口の利き方に気を付けろ。我々は王陛下の右の翼“特務警護団”だ」
ノエルと言う軍人の低い声が響き渡る。
「ッ……どうか、理由を。オル……何故彼を」
「お前には関係ない。これは王命だ」
「王……命……?」
「道を空けろ。邪魔をするなら、この場で……」
「ま、待って下さいっ! スーランは関係ないっ!」
オルタナは押し込められた馬車から身を乗り出し叫んだ。
冗談じゃない。
こんな訳の分からない理由で友達を斬り殺されたんじゃ、黙って付いて行く甲斐もない。
「オーリィ……」
「大丈夫、スーラン。大丈夫だから……」
いつも気の強い二つ年上のスーランの泣きそうな顔を初めて見たかもしれない。
何が大丈夫なのかわかりゃしないけれど、この場を収める言葉がそれしか見つからなかった。
「奴には第一級殺人罪の容疑が掛けられている。これ以上邪魔をするなら、お前も同罪と見なすぞ」
そう言ってミレーと言う女騎士が腰の剣に手を掛ける。
「ちょっ……やめっ……」
「お前は大人しく座ってろ」
一緒に馬車に乗り込んでいたローブの男に背中を掴まれ、オルタナはまた奥へと引きずり込まれた。
「騒ぐな。殺しはしない」
「でもっ……」
「なぁオルタナよ。一刻も早くここを立ち去るには、どうしたら良いと思う?」
「……黙ります」
「それで良い」
馬車の向かいに座った男はそう言って被っていたローブを気だるげに外す。
濡れた様な宵闇色の髪に、同じくらい黒く澄んだ眸がこちらを見ている。
何でこんな所に、こんな大物が――――?
何故一人だけずっとローブを被っていたのか、やっと合点がいった。
この国では黒髪や黒い眸は健国王の血筋だと尊ばれる。
稀少だと言われるΩよりも少なく、今現在、健国王の生まれ変わりとして国で一番有名なのが彼――ヴィンス・サリバン公爵閣下だ。
現国王レイモンドの実弟でありながら、若い頃に王位継承権を破棄し臣下へと自ら下ったと言う。
何でも現王と弟のどちらを王にするかで派閥が激化し、内乱すら起こり得ない緊迫した時代があったとか。
血を重んじる世襲貴族達はこぞって第二王子を支持し、改革を求める新興貴族達は現王を王位に望んだのだと言う。
サリバン公爵家はドーン王国の中でも一番古い世襲貴族の一つだが、直系の長男ではなく彼に家督を譲る程、彼の容姿を尊んだ。
それに加えて、特務警護団の団長としての有能さは国でも有名だ。
「俺の顔に何かついているか?」
「あ、いえ……失礼しました」
元は王家。
王位継承権を破棄したとは言え、その気品や纏うオーラはやはり一線を画している。
ローブを被っていた時には気付かなかった花の様な匂いも、伏した睫毛の上に零れる陽の光も、まるで人ではない何かを見ている様だ。
少し下がる甘い眦も蜜を塗ったような濡れた唇も、まるで軍人とは程遠い気品に満ちている。
「もう一度聞こうか。俺の顔に何か? オルタナ」
「え……」
「見過ぎだ。もうそろそろ穴が開く」
「すっ……すみません……」
珍しい物を見ると観察する癖が出てしまう。
「魔女ドーラの孫はまるで妖精だと聞いていたが、確かにその容姿は人間離れしているな。彼女からは想像も出来ぬ」
「それは……祖母が醜いからですか?」
「それは楽しみだな」「それでも寂しくなったら、ヴィー様もここに来て良いよ」「うん?」「そしたら僕が必ず迎えに来てあげる」 オルタナは甘く揺れる暖炉の火に照らされて火照った頬を、公爵の頬に摺り寄せる。 公爵はそれに応え、強請る様な視線をこちらへ向けた。 見つめられるなんて今更なのに、いつまで経ってもその黒い熱を持った視線に酔いそうになる。「ヴィー様、大好きだよ」 抱きかかえられたオルタナは、伺うようにして公爵に唇を寄せる。 触れる様な優しい口付けの後、濡らす様にして下唇を食み、舌で味わう。 公爵の舌が肉片の隙間を伺うようにして歯列を舐めると、オルタナはゆっくりと口を開き公爵の舌を迎え入れる。 吐息が漏れる程の甘い口付けの後、公爵は思い出したかのように傍にある荷袋に手を伸ばした。「義父上から預かったものがある」「父さんから……?」 そう言って公爵が荷袋から出したのは、件の“母のショール”だ。「これ……母さんの……?」「お前に持っていて欲しいそうだ」「父さんが持っていれば良いのに……」「オーリィ、立って貰えるか?」 そう言って両腕を鷲掴みにした公爵に、半ば強引に立たされたオルタナは、その意味を察する事が出来ずに小首を傾げる。「何……?」 公爵はその持って来た“母のショール”を肩から掛けてくれて、跪いた。「ちゃんと言ってなかったと思ってな」「んんっ?」 公爵はそう言ってポケットから小さな箱を取り出す。「これも義父上から譲り受けた。加工して使えと」 その小さな箱を開いて見せた公爵は、仰ぎ見る様にしてこちらを伺っている。 箱の中には黒いカボションカ
「ま、またそんな呼び方してっ……オルガノ小隊長は仕事で……」「本当なら屋敷に閉じ込めてやりたいくらいだ」「ちょっ……閉じ込めるって……」 やはり、ウケイと公爵は少し似ている。「……そんな事をすればお前に嫌われる。だからしない」 そう言った公爵が抱きしめる腕にグッと力を入れる。 肩越しに顔を埋めた公爵の声が、少し疲れているように聞こえた。「ごめんね、ヴィー様……」「何を謝っている?」「さ、寂しかった……のかなって……」 自惚れているかもしれないけれど、そう感じてしまう。「親子の時間を邪魔するつもりはないが……そうだな、寂しかったのかもしれん」「かもって……」「オブライアンから母上の今わの際にあった出来事を聞いた」 公爵はそう言ってポツリポツリと前王妃である母上の最期について、新たに知った事を話し出した。 アルバの存在が明らかになってから、オブライアンから公爵に打ち明けられた事があったらしい。 前王妃が鬼籍に入る少し前、ケルメスが見舞いと称して王妃を訪ねて来た事があったそうだ。 その際、人払いを命じられてオブライアンは部屋の外で待つしかなかった。「ケルメスが去った後、母上は父上に裏切られたと泣き喚いたらしい」 だがオブライアンは、ケルメスとの会話の内容を聞いていない。 その上、情緒不安定な前王妃は譫言の様に妄想に基づく発言が増えて
「そう怪訝そうな顔をするな、オーリィ」「だって、いっつも僕だけ知らないんだもん。今日だって王陛下や婆ちゃん達まで来るって知らなかった……」「お前のその拗ねた顔が見たくて、止められんのだ」 公爵は馬車の中で向かい合って悪びれもなくそう言って笑う。 オルタナは更に口をへの字に曲げて顔を逸らした。 楽しそうにこちらを見て月夜の青白い光を内包したその眸に、心臓が跳ねる。 いちいち甘い言葉で誤魔化して! 滴る様な色香をもう十分に知っている。 なのに、いつまで経ってもオルタナの若い心臓は跳ねる事を止められない。 もっと歳を重ねたら、こんな風に忙しなく緊張する事も無くなるのだろうか? なんて、自分の未熟な心臓を恨めしく思う。 ◇◇◇ そう遠くない距離を走って来たかのように思えたが、車窓の外は暗く民家も見当たらない。 緩く上り坂を上っているし、そこが街中ではない事くらい分かる。 この雪の降る中、森へと馬車を走らせている様に見えてオルタナは不安になって公爵を問い正した。「ヴィー様、もしかしてマヴェロの森に行こうとしてる?」「あぁ」「こんな天気のこんな時間に?」 マヴェロの森は来春に夜葡萄の再生地となる森で、特に深い森だ。 酷く吹雪いているわけでは無いが、雪は降り続けている。 森の天気は変わりやすい。 こんな時間に夜会帰りの様な軽装備で行けば、危険極まりなく野宿するにも場所が限られてくる。「大丈夫だ。お前を連れて危ない所に行くわけがないだろう?」「それは分かってるけど……」 雪山の恐ろしさを知らない公爵が、この天気を舐めているとしたら話は別だ。 そんな不安を余所に、馬車は深い森の少し開けた所でガタンと大きな音を立てて停まる。 馬車を牽いて来たスーランが扉を開け降り
そう話に割り込んだのは祖母のドーラだった。「彼本人に選ばせるのはいかがでしょう? もし、彼が種枯らしを飲んででも普通に生活したいと言うのであれば、私が育てましょう」「オピスッ……」「半分はエヴィ様の子なんだ。侍女の私が育てるのが筋と言うもの」「しかしっ……」「私が主人を一人で行かせなければ、こんな事にはならなかった。罪滅ぼしをさせてくれ」「お前は平気なのか……? あの子を認められるのか……」「相変わらず朴念仁だよ。エヴィ様があの子を孕んで産むまで、命を絶たなかったのは何故だと思う……そう考えると、あの子を無碍には出来んよ」 凌辱され望まない相手との子供を孕んだと知った時、母エヴレカは命を絶とうと思った事はなかっただろうか。 ただでさえ自分の身に置き換えれば、公爵以外の者と性交したという事実だけで死にたくなるだろう。 宿った命を殺せなかった。 きっと母――エヴレカと言う人は、そう言う優しい人だったのだ。「ウケイ……ごめんなさい。私はいつでも貴方を困らせる」「ラティ様……」「でも、私はウケイがいたからここにいる。あの子にも道を用意してあげて」「父さん、婆ちゃんが面倒見てくれるなら安心じゃない……?」「オルタナ……お前まで」 何が正しいのかは未だに分からない。 後に殺しておけば良かったなんて結果に、ならないとは言えない。 それでも、可能性があるのならそちらに賭ける方が良い。「せっかくの祝いの席を湿っぽくして申し訳ない。レンスター少佐」「いえ、お気になさらず……ウケイ殿」「陛下、ラティ様、この件に関しては両陛下の判断にお任せします。今後、私に何か意見を求める必要はありません。求められても判断しかねます故……」「あい、分かった」「ありがとう、ウケイ」 背の高いウケイの腰に纏わりつく
あの小さな家にウケイが引越してきた際に、オルタナも片付けの手伝いに行った。 その時、屋根裏部屋の物置から“母のショール”が出て来たのだ。 いわゆる夜の国で言う所の“嫁入り道具”である。 それは、番であるウケイや同族の皆が糸を染めて、侍女であった祖母が編んだものだった。「オピスに叱られながら私も編んだよ」 ウケイはそう言って懐かしそうにそのショールを広げて見せた。「父さんも編んだの?」「少しだけな。殆どはオピスが作ってくれた」「どうやって作るの?」「こうやって指で編むんだ」 少し太めの柔らかい毛糸を指で編むその技術は、寒い夜の国ならではの技法なのだとか。 道具が無くても作れる上に、指を動かしている事で指先が凍える事もない。 最初こそ教えて欲しいと頼んだのは、父親との時間を過ごす言い訳だったのかもしれない。 でもいつも公爵との事でお世話になったノエルとミレーに、何かしたかったのも嘘じゃなかった。「俺も糸を染めたのは初めてだった」 そう言った公爵に、ミレーが驚いた様に聞き返す。「ヴィー様もやって下さったのですか?」「お前達の縁者として、俺がやらないでどうする」「ちゃんと出来ました? 団長。染料とか扱った事無いでしょうに」「それはお前も人の事は言えんだろう? ノエル。案外面白かったぞ。兄上も義姉上と一緒にやってくれたんだぞ」「えっ⁉ 陛下までっ?」 驚いたノエルがそう言ってぎこちなく王陛下へと視線を寄こすと、王陛下はにっこりと笑って答える。「ラティに教えて貰ってな。なかなか楽しい作業だったぞ」「ありがとうございます! 皆様も、本当に……」 そう言って頭を下げる二人に、皆が温かい拍手を送る。 両陛下はその姿を見て「この場を借りて」
「半年前にドーラ殿から薬を貰った際に、こう言われたのです。騎士である事と命を授かる事、どちらが大事かよく考えてごらん、と。騎士を辞めて、子に恵まれれば悔いはありませんし、子が出来なかったとしても、オルタナ様のお傍にお仕えして、いづれご懐妊された時、一緒にお子を育てる事が出来たら幸せだな、と」「ミレー……」「ウケイ殿からも講師のお誘いがありましたし」「ホント、うちの家族がごめんなさい……自分勝手な人達ばっかりで」「ふふっ、いいえ。全てはオルタナ様と、ドーラ殿のお陰です」「僕は何もしてないよ……」「それでも、オルタナ様がヴィー様と出会いご縁が無ければ、きっと私がドーラ殿に出会うご縁もなかったでしょうから」「そうなの。オルティって不思議よね。縁を繋いでしまう力があるのよ」「んぇっ⁉ 何それ、ラティ……」「きっとエヴレカ様から授かった力なのだわ」「母さんから……?」「だって、ここにいる皆はエヴレカ様に呼ばれて集まった様なものだもの。オルティがそれを繋いでくれたから、こうして皆で笑い合っていられる」 王妃に母に呼ばれたのだと言われて、そうなのかもしれないと、思う。 母と得体の知れない植物がアウルムの修道院のあの冷たい無縁墓地の泥の中から見つかった。 あの事が無ければ、父が生きている事も知る事はなかったかもしれない。 王族に連なる方々とこうして肩を並べて同じ時間を過ごすなんて、夢でさえ見る事は無かっただろう。 何より祖母はまだ北の時計塔に捕らわれ、公爵が殺人犯だと触れ回ってあの家から連れ出してくれなければ、本当に罪人として裁かれていた可能性だって否めないのだ。「母さんに感謝しないと……」 そう呟いたオルタナに、王妃もミレーも言葉なく微笑みで返す。 ふっと視線を感じて顔を上げると、公爵と目が合った。 こちらへ来いと言われている様で、オルタナは王妃とミレーに断って素直に公爵の傍へと歩み寄る。
馬なんて王都の貴族か、国軍くらいしか乗らないものだからだ。「逃げるか……」 オルタナは非常時に備えていつも用意してある荷袋を持って、カウンターの後ろに設えてある子供一人が通れるほどの隠し扉を開けて潜り込む。 その出口を知っているのは、祖母と自分だけだ。 なのに、出た瞬間覆い被さる様な人影に、オルタナは動きを止めた。「あ。出て来た」「は?」 四つん這いになって見上げたその先にあった影は、ローブを被った軍人の物だった
ミレー中尉に至ってはヴィンス・サリバン公爵閣下の番がどうお得なのかを延々と語って来る始末。 結局、番の話は有耶無耶になったが、この日を境にノエルやミレーとも普通に会話出来るようになった。 庭の方から子供の笑い声が聞こえて、オルタナは不思議に思い二階の私室の窓から顔を出す。 広く美しい庭園のガゼボで、ミレーと少女が笑い合っている。 少女は下級貴族の様な質素な装いで、傍には見た事のない中年の髪のない下男らしき男が侍っているが、少女の髪は鴉の濡羽の様な美しい黒髪だ。 あんな黒髪を持つ少女が下級貴族
祖母は顔の上半分が薬草に被れて、まるで火傷の痕の様に爛れている。 その見た目から祖母は魔女ドーラと揶揄されていた。「あぁ、いや違う。気を悪くするな。彼女は栗毛で肌も小麦の様だった。お前は銀髪に白い肌をしているから、こんなに違うものかと……」「そ、祖母に会ったことがあるんですかっ?」「あぁ、一度だけ。モリガン伯が薬物兵器を研究していた者を監禁していると聞いて、見に行った」「そう、ですか……」
ベルの花が鳴く頃、モリガン区の雪も少し解け始める。 雪原から顔を出した青白いベルの花は、リンリンと鳴いて春を告げるのだ。 そんな北の果てに不穏な噂が流れていた。「王都じゃ余計に死人が出たってさ」「ここじゃ当たり前だが、去年は寒かったからねぇ」「何でも王都じゃ病で死んだ者は、教会で死体を燃やすんだと」「罪も犯してないのに病で苦しんだ挙句、体を焼かれるなんて酷い話じゃないか」「王様も教会には強く言えないんだろうさ」「サンノ国から来られた王妃







